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りゅう星の章
りゅう星の章
大切な家族の一人だったりゅうが逝ってしまった。
「いつも通りぼくは元気でちゃんと番犬しているよ」と、
その姿を私たちに見せようと、りゅうは弱音も吐かず、泣き言も言わず、
窓から顔を出して吠えては私を振り返った。
記憶の許す限り、りゅうの日々をここに残しておきたい。
ギャラリー
プロローグ
風の中に、光の中に、季節の空気の中に、今もりゅうはいる。
言葉で時を共に過ごせるなら、私はそうしたいと、このページを作った。
自分で書いたノートやりゅうの日々の記録、りゅうの写真、色々なものが「りゅう」の木箱の中に入っている。
でも、ノートに書くより、パソコンで打ち込むほうがたくさん思いをかけるようになった。だから、ノートも書くけれど、ここにも書いていきたい。これは私の覚書のようなものだから、思いつくままに書き込んでいくつもりだ。
長い旅になるので、気が向いたら程度に考えている。
友人がこんな短歌を贈ってくれた。
「わかってる 大事なことは 君がいないことではなくて 君がいたこと」 星田美紀
2022年3月10日(木)
りゅう呼べば笑顔残して春に逝く
本文一
2022年3月10日(木)夕方5時ごろ
りゅう最後の時を迎える
「いつも通り、僕は元気でちゃんと番犬しているよ」と、その姿を私たちに見せようと、りゅうは、弱音を吐かず、泣き言も言わず、窓から顔を出して吠えては、ちょっと得意そうに振り返った。
りゅうの病気を知らされてから、毎日りゅうの記録をつけていた。何を食べて、おしっこは何回して、熱は、便の様子は、食欲は、など、細かく記録したノートが今も手元にある。時々読み返していると、りゅうが生きていた時の姿が目の前に立ち現れてくるようで、私の宝物だ。
りゅうは、3月4日から食事を全くとらなくなっていた。吐き気があり、下痢をした時から、あんなに食べることが大好きだったあのこが、一切の食べ物を口にしなくなった。食べられないのか?食べたくないのか?どちらでもあったのだろう。時々食べたそうにするので、口に入れてみるが、受け付けなかった。腎臓の数値が心配で、とにかく水分をと、食べ物は取れなくても水だけはと、シリンジで水やジュースを飲ませていた。
その日の朝も、いつものように、カルシウムを加えた水を少し飲み、りんごを絞ったジュースを少し飲んだ。普通に水を飲み、ジュースも飲めて、夜の間におしっこも自分でしたようで、少しほっとしていた。この頃は、りゅうが、水を飲んでおしっこをしてくれると、嬉しかったしほっとした。
りゅうが自分で食器からご飯を食べなくなり、水も飲まなくなったのは癌だとわかってからしばらくしてからだ。1月27日に抗がん剤を打ったあとも、最初はそれほど強い副作用は出なくて、元気で食欲もあり、ごはんも完食していた。それが1週間後くらいから、今までのご飯を食べなくなり、少し副作用が出始めたのか、呼吸が荒い時が多くなり、食事も今までのドックフードは食べないので、色々な手作り食やペースト状のものなど、食べれるならと色々取り寄せて、食べれそうなものをできるだけあげるようになった。このころから、立って食事をとることもしんどくなってきていたのだろう。自分で食事の場所に行ってご飯を食べたり、水飲み場に行って水を飲んだりをしなくなった。しなくなったのではなく、そうするのが段々にしんどくなってきていたのだと今ならわかる。
腎臓の数値も悪くなってきていたので、何とか水分補給をしたくて、このころからシリンジで水を飲ませ、ごはんは、ドックフードをそのまま食べれる時は、手で直接あげていた。ふやかしたものや柔らかいものはスプーンで、誤嚥しないように上半身を持ち上げてスプーンで口に入れるようにしていた。鳥肉のささみやサーモンのお刺身、サツマイモ、じゃがいも、キャベツなど、蒸し器で蒸した物を口に持っていくと喜んで食べてくれた。
辛くないときは頑張って起きて食べていた。どうにもしんどい時は寝たままで、少しづつ口に入れてあげて、それでも食べてくれている時はよかった。大好きなりんごをむいていると、その音を聞きつけて、不自由な足なのに一生懸命起きてきて、身体を壁に預けて待っていた。今でもその姿が見えるようで、思い出すたびにやっぱり涙が出る。
その大好きなりんごも、ほんの少し口に入れて食べた後である日吐いた。その日から吐き気と下痢が始まり、私たちが思っているよりもしんどかったのかもしれない、りゅうは食べなくなった。それが3月4日だった。
トイレも、支えがなければ自分でするのはしんどくなっていたはずだが、亡くなったこの日、私が朝起きた時には、力を振り絞ったのか、自分でちゃんとトイレにしてあって、自分のベッドに戻っていた。だから余計に少し安心していた。まだその力が残っていることに。だから、りゅうが、最後の力を振り絞って、私の力を借りずに自分でやろうと頑張ったのだということは後からわかった。
今ある命を、全生命力をかけて生きる。自分の力でやれることをやる。手を貸さなくても大丈夫だからと、最後までりゅうはできることをやろうとした。できることならば、色々なことができなくなってきた自分を私たちには見せたくないと思うのか、時々、部屋の隅の布団の陰に入ろうとしていた。あぶないからと入れないように布団であなをふさいだけれど、あれは動物の本能だったのだろうと思う。
「おりこうさんだね、えらかったね」と今でもりゅうに呼びかける。りゅうだけではなく、動物たちはきっとみんな同じように、普段通りの元気な自分を私たちに見せて、「大丈夫、ほら元気だから」と。そんな風に飼い主に寄り添うのだ。
その強さ、やさしさ、自立心を、私はりゅうを通してより鮮明に教えられた。病気になったから、辛さや痛みをじ~とこらえてそれでも懸命に生きようとする姿を、何度も何度も見た。その行動の意味を後で知ったことも多い。その時はどうしていいのかわからずに辛かったことも多かった。わからないのだ。言葉で伝えてはくれないから、痛いのか嫌なのか、どうしてほしいのだろうと、迷いながら、できる限りのことをしていたように思う。
りゅうには不思議な癖があって、嫌な時には「かくかく」と歯ぎしりのようなことをする。それもあごを散歩のひもや私たちの手にあずけるように乗せて。最後の七日くらいは、その動作をして意思表示をするようになった。起きてトイレに行きたい時は「かくかく」したので、急いでトイレまで抱っこして連れて行くと、何とかそこで立っておしっこをした。おしっこかなと思ってっ抱き上げようとしても「かくかく」しなければ、そうではないという感じだった。でも最後の日だけは、ただただしんどくて、いやだいやだと言っていたのか、ずーと「かくかく」して、最後の日の吐き気がある時には、激しく「かくかく」し続けて、舌を噛むんじゃないかと心配で必死で止めたり、やめなさいと言ったりした。
すごくしんどかったのだろうということはわかるけれど、痛み止めをいれた点滴もしたし、これ以上何をすればいいのか、先生も、もうやれることはないと言っていた。りゅうはモルヒネを使うところまではいかなかった。そろそろ考えないといけないかもしれないと先生は言っていたが、最後の日は、痛いというよりは苦しそうだった。血便が二度でたから、たぶん、体内で内出血を起こしていたのだと思う。結果はもう見なくても進行していることは数値でわかるからと、血液検査以外はやめましょうと、レントゲンなどもとっていなかったから、体内の様子はわからなかったけれど、確実に癌は進行していたのだと思う。
りゅうの前にいたシリウスは17歳と3か月という長寿だったから、最後はやはり少し病んだが、その死を寿命として受け止めることができた。が、10歳で逝ってしまったりゅうは、まだ早すぎる死だったから、なかなか、その現実を受け入れるまでに時間がかかった。癌という病気の特殊性もあったのかもしれない。犬の場合は進行が早く、治るということはない。ただ、どれだけの時間を、痛みをできる限り抑えて、犬としての日々を過ごすことができるか、少しでもりゅうらしい毎日を過ごせるのか。寝たきりではなく、最後の時間を過ごしてほしいと、それだけを主治医にはお願いした。
長く生きることではなくて、りゅうがりゅうらしく、生きていてほしいと願った。そして、痛みのない日々を過ごせることを、ただただ願った。
その願い通り、りゅうは最後の日以外は、それほど痛そうなそぶりは見せなかった。果たして痛くなかったかどうかは定かではないけれど、痛み止めは良く効いていて、痛み止めを腎臓の数値に不安があり先生からストップがかかった時には、明らかに痛みが出ていると分かった。
最後の日に、初めてりゅうは苦しそうな呼吸をして、のどにたんをからませた。娘に、手で取ってやると少しは楽になるからと教えられて、りゅうは嫌がったが何度か、手で取った。午前中は吐き気と痰が絡むことでとても辛そうだった。吐き気止めの注射を医者にもらいに行ったりもしたが、吐き気ではなくて誤嚥性の肺炎が始まっていたのかもしれない。医者はもしそうならもうどうすることもできないと言っていた。
皮下点滴を自宅でやっていて、その日も朝にやったが、いつもは静かに寝ているりゅうが、途中で苦しそうにあえいだり少し暴れるしぐさを見せた。それだけ苦しい状態になっていたのだろう。その日は血便の下痢も二度した。世話をすることは少しも嫌ではなかったけれど、りゅうは毛が多いから、きれいにするのに時間がかかる、りゅうには辛かったはずだ。それが分かるからそのことが辛かった。身体をきれいに拭いてさっぱりして、大好きなベッドに寝て、午後から、やっと吐き気や痰が絡むのが収まったのか、眠った。
でも、呼吸が苦しそうで、時々顔を上に向けて大きく息をしていた。大丈夫だからねと、横に一緒に寝て、ずーと手を握っていた。私も途中少しうとうとしたりして、午後の時をずーと一緒に過ごした。
その日は、食事らしい食事をほとんどとっていないりゅうのために、スープを作ってやりたくて、イオンネットで鶏の骨や骨付きもも肉を注文したので、配達の人が4時過ぎに来た。インターホンの音にりゅうが怒ろうとしたので「大丈夫だからと」手で知らせて、届いた食品を受け取り、冷蔵庫などにしまいながら、少し片付けなどをした。上の娘はオンラインで仕事をしているが、この日は出社しなければいけなかったようで、朝早くに出かけて、4時過ぎに帰ってきた。りゅうの様態が心配なので、夜の診療時間にりゅうを連れていく予約をしてあった。外科専門の病院なので、午前中か夜9時からの診療になる。午後は検査や手術などにあてられていた。
上の娘がりゅうの様子を見て「静かに眠っているね。お母さんがいつも通りに家事をしていたほうが安心するんだね」といって、2階の仕事をしている自分の部屋に行ったので、なら、少しりゅうのそばばかりにいないでりゅうのスープでも作ったりしようかと、キッチンに立った。どれくらいの時間がたったのかは記憶にない。それほど時は経過していなかったように思う。キッチンからりゅうが見えるのだが、急に激しく呼吸しだしたのが分かった。今までとは明らかに違う様子がして、階段の下に急いで行って、その日は休みで午前中りゅうの世話をしていた下の娘は部屋で休んでいたので、「りゅうの様子が変だから来て」と大きな声で言ったつもりだが、思った程大きな声が出なくて、でも上の娘がその声を聞きつけて、すぐに伝えるからといったので、すぐにりゅうのところに行こうとりゅうのほうを振り返ってみたとき、激しく呼吸していたりゅうが、かくっと頭を垂れるのが分かった。
「りゅう、どうしたの」と駆け寄ったのと、下の娘がりゅうのところに飛んできて抱き上げて、鼻と口元に手を当てて「もう息をしていない」といったのとほとんど同時だったような気がする。「そんなはずはない、今、息をしていたのに」という私に、「息をしていない」と何度も言って泣き叫ぶ下の娘の声が耳にこだましていた。かくっと頭を垂れた時が、りゅうの呼吸が止まった時だったのだと、理解はできても、そばにいて手を握って抱いていてやれなかったと、ずーとそのことが今も深い悲しみとして残っている。
まさか、こんなに早くあっという間に逝ってしまうなんて、思ってもいなかった。いや、思っていなければいけなかったんだ。もう7日も水やジュース以外は何も食べていなかったのだから。でも、私も娘たちも、まだ、大丈夫と思っていた。まだりゅうは生きていてくれると、理由もなく思っていた。だから、新しいシリンジを注文して、点滴に必要な道具も買い揃え、りゅうのおむつも用意して、家であの子を治療して看病できるように、色々な準備をしていた。でも、あの子はもういっぱいいっぱいだったのだ。
「もう、頑張らなくていいよね。ぼくもおかあさんたちも」りゅうのそんな声が聞こえるような気がする。
13日に動物の葬儀をしてくれるお寺に連れていくことをお願いして、10日から13日のお昼過ぎまで、ずーとりゅうと一緒に過ごした。花を飾り、りゅうの好きだったものをいっぱいそばにおいた。りゅうはとてもやさしい顔をして2日くらいは笑っているように見えた。身体も暖かくて、お布団で眠っているだけのようで、「生きてるなら起きてこないとだめだよ」と何度も呼びかけた。寝顔は生きてるみたいで、それはお寺に連れていくまで変わらなかった。
りゅうの骨は小さなものまですべて骨壺に収めて、家に持って帰ってきた。家が大好きで、頑張って病院に通って治療をしたけれど、帰れるから、あの子は先生から「本当に我慢強い子ですね」と何度も言われるくらい、治療の間は、一切声を出さず、動くこともなく、耐えて頑張ったのだ。治療に病室に連れていかれる時には、いつも「待ってるからね」と声をかけた。「おうちに帰る」ことだけが、あのこの希望であり喜びだったはずだ。だから、骨になっても、全部を家に連れて帰ってやりたかった。私たちと一緒に、いてほしかった。
もう写真でしかりゅうには会えない。少しだけ動画がとってある。リビングにはたくさんのりゅうの写真が貼ってあるから、りゅうといつでもおしゃべりできる。
いい思い出ばかりが記憶の中に残されていくような気がしている。忘れたくないから、りゅうと過ごした日々を、思い出しながら書いていこうと思っている。できるならば、りゅうの物語がここに出来上がってくることを願いながら。
本文二
「りゅうの病名と余命を知らされる」
1月25日
HPの更新を休むという報告を最後に、4か月が過ぎてしまった。りゅうは3月10日の夕方に息を引き取った。1月25日に細胞の検査をした。その時に、まだ病名をきちんとは伝えられないけれど、多分間違いなく癌だと告げられた。
余命は長くて6か月、早ければ1か月で逝ってしまうこともあるかもしれないと。先生は末期の癌だとはその時はおっしゃらなかった。でもすでに3か所に転移していたし、症状が出てすぐに医者に行ったけれど、3か所目になる外科専門のこの病院で病名を告げられるまでは、慢性の関節炎だといわれその治療をしていた。2か月で、癌は進行してしまっていたのか?血液検査も11月にしたし、レントゲンも撮ったけれど、特別に異常は見つからなかった。まさかと不安になったのは、この3か所目の病院での検査結果が出る前の日。少しネットで検索してみた。想像もしていなかった病名が出てきて、信じられず、そんなことはないと自分に言い聞かせたけれど、涙が出てきてお風呂で大泣きしてしまった。
次の日、まさかの結果を告げられて、すぐに抗がん剤の治療を始めたほうがいいといわれた。進行するのを少しでも抑えたいし、犬は人間ほどには副作用の心配もないし、何より、足の痛みを抑えてあげるには抗がん剤の治療が一番適していると、CT画像を見ながら説明してくださった。涙が止まらなかった。骨の画像を見ることは、もうその時すでに辛いことだった。
もう一度、きちんと家族が揃って病状説明と治療方針を確認するために2日後に病院に行くことにして、確認して納得ができたらすぐに身体の数値を確認しながら治療を始めましょうということになった。
犬って笑うんだよね。動物と一緒に過ごしたことのある人は、彼らが色々な表情を見せてくれることを知ってる。話せば小首をかしげて聞いてくれるし、気に入らなければ無視するし。物言わぬ者たちの思いまではわからないけれど、それでも寄り添っていてくれるのはわかる。どんなに疲れていても、コースを自分で選んで短くしても、ちゃんと付き合ってくれる。優しんだよね。
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愛犬のシェットランドシープドッグ、10才雄→2022年3月10日
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