ギャラリー
長田 弘
世界はうつくしいと
うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
人生は森の中の一日
何もないところに、
木を一本、私は植えた。
それが世界のはじまりだった。
次の日、きみがやってきて、
そばに、もう一本の木を植えた。
木が二本。木は林になった。
三日目、わたしたちは、
さらに、もう一本の木を植えた。
木が三本。林は森になった。
森の木がおおきくなると
おおきくなったのは、沈黙だった。
沈黙は、森を充たす空気のことばだ。
森のなかでは、すべてがことばだ。
ことばでないものはなかった。
冷気も、湿気も、きのこも、泥も、落葉も、
蟻も、ぜんぶ、森のことばだ。
ゴジュウカラも、アトリも。
ツッツツー、トゥイー、
チュッチュビ、チリチリチー、
羽の音も、鳥の影も。
森の木は石ゴケをあつめ、
降りしきる雨をあつめ、
夜の濃い闇をあつめて、
森全体を、蜜のような
きれいな沈黙でいっぱいにする。
東の空がわずかに明けると、
大気が静かに透きとおってくる。
朝の光が遠くまでひろがってゆく。
木々の影がしっかりとしてくる。
草のかげの虫。花々のにおい。
蜂のブンブン。石の上のトカゲ。
森には、何一つ、
余分なものがない。
何一つ、むだなものがない。
人生もおなじだ。
何一つ、余分なものがない。
むだなものがない。
やがて、とある日、
黙って森をでてゆくもののように、
わたしたちは逝くだろう。
わたしたちが死んで、
わたしたちの森の木が、
天を突くほど、大きくなったら、
大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。
そのとき、ふりかえって、
人生は森のなかの一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。
花を持って、会いにゆく
春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、
遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへもゆくことはない。
そうと知ったとこに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、
いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に
いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。
十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。
病いに苦しんで
なくなった母は
死んで、また元気になった。
死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。
話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。
春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。
春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と
きれいな花を、手に持って。
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言の葉の章
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ゆう胡(俳号)
(掲載写真はすべてゆう胡撮影)
誕生月 弥生